蒐書メモ―村里社
蒐書メモ 
| ・蒐書と研究調査に関わる話題などあれこれを備忘録的に書いていきたいと思います。「メモ」ですので文体・形式・内容全てゴチャゴチャです。 |
更新日:2016年5月4日
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12月は長野、1月は北海道、2月は山陰→福岡、2月末から3月初は上海→北海道、その後岡山→奈良、4月初沖縄、4月末金沢と資料収集継続中。ですが、なかなかの忙しさで更新する時間が全然とれません・・・。 とりあえず写真をいくつか。 1月の北海道より中島公園、小樽運河、ぶん公像。昨年も同じ時期に行きましたが、今年は雪が少なめで晴れていたこともあって、ぶん公さんもあたたかそうでした。→去年のぶん公さん。 そうこうしているうちにも世の中は動いているようで、いろいろ気になるニュースも入ってきました。一番気になったのは代々木の古本屋、白紙堂書店の建物が取り壊されたというニュースです。代々木の予備校と駒場の大学(1限授業がある時には代々木・南新宿乗換を常用していました)に通っていた割に1度しか店を訪れたことがないのですが、それでも昭和の古本屋がタイムカプセルに入ったまま残されたような趣は、そこで本を買った記憶とともに今でも心の中に深く刻まれています。 本を買ったのは2000年のこと。幸い当時書きのこしていた文章が見つかりましたので、先にそれを引用しておきたいと思います。(全体に生意気な学生風情丸出しで、かなり失礼な言辞もありますがお許しください) 中は神保町の英山堂書店を4分の1に縮小したような感じのレイアウトで、本の品揃えも売れ残りを集めたような感じでした。ただ、店の奥の方には多少いい本もあったので、そこら辺を4・5冊ひっくり返して村上知行の『大陸』を3000円で買うことにしました。それほど安くもないのですが、店は1週間ぐらいお客さんが来た形跡がないかのようにひっそりしていて、店番のおばあさんも手持ちぶさたで自分の方をじっと見つめているので、記念に買っておこうと思ったのです。 おばあさんに本を差し出すと、ためつすがめつ眺めたあと、かすれて聞き取れないような声で「たみちゃん、メガネ持ってきて」と家の中にいた40前後のおばさん(二人は嫁と姑の関係か?)に声をかけ、メガネをかけてなんとか3000円という文字を読みとると、「3000円でいいんですよねぇ」と確認してくれました。そして「ティッシュ、ティッシュ」っとネピアの箱を手もとに引き寄せながら「きたないからねぇ」っとティッシュを1枚取り出して本をごしごししてもくれました。そのたみちゃんと呼ばれていたおばさんも、おばあさんの後ろで一部始終をじっと見つめていました。 このときのティッシュで本の表紙を拭く光景は忘れがたいものがあります。なぜなら、今風のツルツルの表紙の本であればいざ知らず、戦前のゴワゴワの表紙の紙をティッシュで拭いたとしても、本の表紙が痛みこそすれ、さほどの効果があるとは思えないからです。引用した文章からは、当時の私もそれを若干滑稽なものとして眺めていたことがわかります。 ただ、その行為は、もちろん本を買った私に対しての親切心から出たものであることはいうまでもありません。私が「おばさん」と呼んだ女性と同じぐらいの年になったいま、その気持ちのありがたさが身にしみてわかるようになりました。おばあちゃんと「たみちゃん」がいま何をされているのかわかりませんが、当時私に示してくれた親切への感謝も上乗せして、お二人に古本の神様のご加護があることを祈りたいと思います。 |
更新日:2016年1月14日
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| 昨年はある県の詩人某氏の旧蔵書を金額にして50万円分ほど購入しました。資料として得がたいものでしたが、それ以上に詩人が長年にわたって断続的に書き継いだ「日記」を手に入れて(パラパラとですが)読むことができたことは私にとって意義深いものでした。あたりまえのことですが、人間の一生というものはなかなか紆余曲折の多いものだとという感慨深し。とにかく一人の人間の人生を表裏合わせて追体験できたことでは、自分の生き方を考え直すうえでも大変役に立ったと思います。 同氏は80歳を過ぎても精力的に仕事をしていて、なかなかの業績を積み上げています。それでも死が近くなったある日の日記にはこんなことも書いてありました。「メーテルリンクではないが、青い鳥(幸福の鳥)をさがしての旅であったのに―、もう私の生涯も残り少なくなりました―、青い鳥をさがしあぐねたままの長くて短い―短くて長い―わたくしの旅でありました。」 後から後悔したところでどうにもならないことですので、細かいことは気にせず、一日一日を楽しく大切に生きて、自分のためにも人のためにもなるいい仕事がしたいものだとつくづく思います。 ・・・諸方面で不義理ばかりしていますが、よくしてくださった方には生きている間に何らかのかたちで恩返しをしないといけません・・・。 |
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更新日:2015年12月9日
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おかげさまで普段はだいたい健康で不自由なく過ごせているのですが、ここ数年は春の花粉症とこの時期の体調不良が恒例行事のようになってしまいました。今年は体調不良がやや長引き苦戦中。しかし、二三日ほとんどご飯を食べなかったにもかかわらず、やせる気配もないのはなぜなのか・・・。 前回記した藤田衛彦・小原愛子作品集を出す前にちょろっと出したいと準備しているのが大野百合子の詩集です。大野百合子は1908年余市町の生まれ。小学校時代に小樽に移り、以降東京での1年半あまりの生活期間と、1938年の死の直前に満洲で数ヶ月過ごした期間を除いてはずっと小樽にありました。高女中退後、独学で洋裁の技術を身につけて二十歳前に自ら洋裁学校を設立した立志伝中の「新女性」で、その生涯はなかなか波瀾万丈であったように思えるのですが、詩の方は至極平明で、日常のできごとや身の回りの風景を調和的に歌っています。 まずは、遺稿詩集『雪はただ白く降りて』の中から「真夜中」と「夕方」という二つの作品をあげておきましょう。 真夜中 真夜中 私はふと起き上り 静けさの中に坐る 真夜中には声がある 深く見つめるところにひそむ力がある 私はどうしようとするのだ ただ、たつたひとつのものであるやうにと希ふ 私はまたすぐ眠るだろう 私のすべてを ただ守る者の手に任せて 夕方 みんなが しあわせに違ひない こんないい夕方 安息のやうな雲が浮く 想ふところは想ふところに とどくだらう こんないい夕方 微風にまじつて 詩想が若干凡庸であるようにも思われてくるかもしれませんが、日々の生活での大小様々な障害を消化して紡ぎだされる表現の調和的トーンは、とりあえず一つの個性であるということができるでしょう。 また、代表作である「雪はただ白く降りて」と合わせると、これら作品の別の側面も見えてきます。 雪はただ白く降りて 雪は あつきおもひあれど 底ふかくつつめる 静かなるこころなり 山々の峰に 火の如き風に吹かれ いつかそのこころをはぐくめり よしや地上に おもふことかなはじと 歎く人あらばとて 雪はただ白く降りて 静かなり 「雪はただ白く降りて」は、調和的表現の裏側にある「あつきおもひ」を静かに伝えてくれるものであり、その意味で「北の詩人」としての大野百合子のあり方を端的に示す作品であるといえるかもしれません。自分が大野百合子の作品を評価するのも、この北の生活の中ではぐくまれた、そして熱い思いをうちに秘めた「雪のこころ」が、作品のいろいろなところに垣間見られるからなのでした。 (補記)大野百合子の詩の「芯」の部分に作品のところどころでうかがわれる「信仰」があることは確かですが、その問題も含めた全体的な詩人論についてはまた別の機会に記したいと思っています。 |
更新日:2015年11月16日
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いま一番見たい本→富田正一『名寄地方詩史』(青い芽文芸社、1984年)の中に出てくるこの本。1963年のお話。 二月、朝日町在住の藤田瞠の子息、衛彦が青芽会員となり、父親ゆづりの詩的感性の開花を期待されていたが、四月のある日造林現場の事故で名寄市立病院に入院。(中略)全快を祈ったが、四月二十日薬石効なく二十三才で永眠した。 この死を悲しんだ衛彦と将来を誓いあった小原愛子は、徹宵して遺稿を集め、自らガリ版ながら印刷を終えた五月十四日、衛彦の後を追い、春秋に富む二十一才の花を散らした。 瞠は、愛子の分骨を衛彦の骨箱に収め、現世を超えて未来の浄土に永劫に結ばれることを祈り、あわせて、比翼塚(夫婦塚)を持たせた。「もりひこ詩集」は上士別町若樹青年の会、朝日町青栓友の会から関係者へ配られた。 今から50年ちょっと前に出たこの『もりひこ詩集』、頭の片隅に記憶をとどめておいて何年も細々と探しているのですが、どの図書館にも古書店にもなくそのままになっています。ですが、今度こそ関係される方に連絡を取って、もし複写ででも手に入ったならば少部数でも復刻して図書館入れておきたいと計画しているところです(関係者による復刻の予定があるのであれば別ですけれども)。余計なお世話ですが、この詩集がもしこのままこの世界から消えてしまうとしたら、あまりに悲しすぎるように思えてきてならないからです。 小原愛子という人がここで死ぬべきであったどうかはともかくとして、とにかくその前に命をかけて一冊の本を編んだその気持ちには畏敬の念を抱かずにはいられません。 一人の人間が本当に命をかけた仕事というのは、たとえどんなに小さいものでも、必ず他のなにものにも替えがたい意味のある輝きを持っているものだと信じています。そして、自分もこのくらい心を込めて命をかけて仕事をしなければならないとつくづく思います。なにより、そのくらいの気持ちを込めて仕事をしなければ、結局のところ何も残らないでしょうから。 (補記)この藤田衛彦と小原愛子の話、『資料・北海道詩史―明治・大正・昭和』(北海道詩人協会、1993年)中でも簡略化された形で記述があります。 |
更新日:2015年11月1日
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微妙に時間ができる→どこかに調べものに行きたくなってとりあえず空いている日にどしどし予定を入れる→時期が来ると調査旅行と他の予定が重なって死にそうになる→先の予定をセーブする→微妙に時間ができる→・・・最近はこの無限ループ。学習能力ナシ!とりあえずこのループを抜け出して論文を書かなければいけません。 さて、前回は湧別と金子きみの話題でしたが、湧別・遠軽の在地的な文学活動に触れず失礼なもの言いになってしまったような気もしてきましたので、今回はそのあたりの補足を書きたいと思います。 湧別の地に文学の灯がともったのは、大正時代の半ばごろ、ちょうど金子きみが小学校を終えて東芭露の薄荷畑を手伝い始めた頃のことです。菅原政雄『北見の文学ものがたり』(市立北見図書館、1996年)では、1920年上湧別村(のちの上湧別町→湧別町)の南湧小学校に赴任した大澤雅休を中心とする動きが湧別に関わる最初の動きとして登場します。大澤雅休は、着任するとすぐに島田梅洞・松村武雄など先住移民の子弟たちを集めて謄写版の歌誌『にほぶえ』を発行し、彼らの作歌を指導して盛りたてました(注1)。雅休は、程なく上湧別を離れることになりますが、1923年入れ違うような形で隣接する北湧小学校に赴任した大塚郷湖や、同校で大塚の同僚となる朝倉力男、遠軽と上湧別の境にある社名淵駅(のち開盛駅と改称→廃止)に勤務していた相良義重などの活動もあって(注2)、この地に文学が根付いていくことになります。 また、ほぼ同時期の1922年には、遠軽でも本間源治によって詩歌誌『北地上』が創刊されていました。本間源治は佐渡の出身のようで、『心の花』の同人であり、合同歌集『新雪』(竹柏会出版部、1933年)の執筆者の一人となるなど中央でもほんのすこしですが名を知られた存在となった人です。『にほぶえ』は今見ることができませんが、『北地上』は北海道立文学館・北海道立図書館にそれぞれ数号ずつ所蔵されています。手もとに以前複写した第1号と第4巻第3号がありましたので、そこからその歌作をいくつかとりあげて見ていきましょう。 晩秋の駅路の馬の鈴の音に今日も我身は寂しく暮るる ふり見ても見知らぬ人よ寂しさに涙ぐましも灯の街行けば 鉱山を掘る音聞きて偲ばれぬ浪路のはての我佐渡ヶ島 以上は第1号より。 背に負はれ涕きゐる子にも活動のビラまきはビラをくれてゆきたり 国道のみちべの草はかぜの陽にゆれてしみじみ秋虫のこゑ 草の穂のゆれをさびしかこの親馬(おや)も仔馬もひそに草はまずゐる どの馬もどの馬もさびし顔をせりなだれのすすき陽にゆれて来る こちらは第4巻第3号より。「活動」は「活動写真」=映画、「なだれ」は「傾れ」で斜面の意味でしょう。 このころの遠軽の人口は1万7千人ほど、すでに市街地が形成されてそれなりににぎやかであった様子がうかがえますが、やはりまだ移住者第一世代の街です。その一人である本間源治も「見知らぬ人」ばかりの地にいることのさびしさを感じざるを得ず、馬でさえも同じ思いを共有していたいうことなのでしょう。 『北地上』第4巻第3号は相良義重をはじめ齋藤瀏、飯田莫哀、戸塚新太郎・神原克重等が寄稿していてなかなか壮観です。本間源治の「北見歌壇追想記」も資料として貴重なものとなっています(この号に掲載されているのは「2」の部分ですが)(注3)。本間源治をはじめ『北地上』の在地同人の歌作の水準はまだ習作の域を出ていませんが、雑誌としては広範囲に影響力のあるものであり、湧別の動きと合わせて当時の日本語文学圏の北限の一端を形成する重要な活動であったといえます。 『にほぶえ』を発行した大澤雅休は1890年群馬県大類村柴崎(現在の高崎市柴崎)の生まれ。郷里の私塾を出た後県内の小学校の代用教員をしながら検定を受けて教員免許を取得し、実家からほど近い滝川小学校での勤務を経て、上湧別にやってきました。 上湧別時代の作品は、数としては多くありませんが、後年刊行された歌集『平原』(短歌新聞社、1980年)に収められています。 故郷(くに)をさかりつのる思ひにまたも泣く妻をさとしつつ吾もさみしき 吹雪 雪靴をあたためてやれば屯田の子はにつこりと礼したりけり 先生とすがりつく子を抱(いだ)きあげ見する垂氷(たるひ)に夕陽あたれる とんでんの子らを教へつつふるさとの教子のことしきりに思ふ 「さかり」は「離り」=離れるの意、「垂氷」はつららの意です。 未墾地に火入れす 喬木の燃ゆる焔の渦巻は夜天に立ちてひた押しに押す 原始風呂 ―原始林を伐採り倒し、火入れして焼き払うとき、その中より恰好の丸木を切りとり、それを空洞にくり抜き、底に鉄板を張りて風呂桶とし開墾の疲れを医やす。樹皮そのままの極めて原始的なるものなり。 移民の子榾焚きつぐもうれしけれ空洞木風呂にわがひたりゐて 眼をとじて空洞木風呂にひたりをり髪の毛凍るけはひを感じ 湯を出れば家並に光る檐(のき)垂氷見かへる空に月高く澄めり 南湧小学校は、遠軽から中湧別・湧別に向かう途上の屯田兵村の一角にありました。開拓はまだ道半ばで雅休自身も原始林を開拓しながらの教員生活であったことがうかがえます。 岩魚(いわな)釣るアイヌの子らをすれすれにさへずりかわし岩燕舞ふ 谷深く一軒建てるアイヌ小舎夕山風に木幣(いなお)なびかす 「木幣」はアイヌの祭具のこと。彼らの「開拓」は先住民であるアイヌの人たちの生活と隣り合わせのものでした。 雅休は、父の病気もあって1922年に群馬へと戻り、小学校に勤務しながら歌誌『野菊』を発行して歌人として頭角を現していきました。そしてさらに1926年に上京し、綴方教育者としてまた書家として名をなすことになります。雅休の生涯の中で湧別との関わりはわずか2年あまりしかなかったわけですが、乙寺与志夫が「その北見にあった日の短日月をも私は惜しまない。かくまで載然とその足跡を印して、かくてひとつの原動力は長く詩歌の本流に立ちどまるであろう(注4)」 と記しているように、湧別のあるいは北見の文学史の中でその果たした役割は非常に大きなものであったといえるでしょう。 ちなみに、大澤雅休が湧別に来た理由については、もう一冊の歌集『平原一路』(大澤雅休・竹胎顕彰会、1986年)所収の大内魯邦「文学活動からみた大澤雅休」の中では、「北海道の自然と開拓者達の原始的な生活を学ぶことや小説を書くという目的」のためであったと説明されています。栃木県の開墾村で生活した経験があり、のちに農民文学運動にも関わる雅休ですので、開拓地生活に魅力を感じたとしても不思議ではありませんが、その移住地が上湧別であったことも含めてやや釈然としない部分が残ることは残ります。ただ、人間というものはそもそもそんなに理詰めで生きているわけではありませんから、この場合も多分に偶然的な要素の働きを受けて湧別と結びつけられることになったのかもしれません。 雅休の生涯そのものも、小学校教員から始まって、歌人・教育者・書家として身を立てていく道のりはかなり曲折したもので、雅休の個性と才能とで貫かれた縦糸の存在があったとしても、やはり偶然という横糸の関与は無視しがたいものであったといえるでしょう。人の気持ちを 軽々しく想像するのはあまり品のいいものではありませんが、湧別時期の雅休にはおそらく後年自らが書家として東京で身を立てることになるとは想像できなかっただろうと思います。 そもそも人間の将来などというものは茫とした曖昧なもので、ある程度は一人の人間の意思によってコントロールできるとしても、結局明日どうなるかということすら生きてみないとわからないものなのでしょう。そして、それはまた、そのような人間の曖昧な生の業と不可分に結びついた文学も同じで、ある地域の文学も、必然と偶然の糸にあやつられながら独立した「生きもの」のように生まれ、育ち、変化していくものなのかもしれません。 (注1)ここに集った在地同人の多くは長く作歌を続け、島田梅洞などは後年2冊歌集を刊行しています。松村武雄は1922年に早世し遺歌集が出されました。 (注2)相良義重は湧別・上湧別・遠軽のお隣、佐呂間村(のちの佐呂間町)栃木で育ちました。栃木は村の山間部にあり、もともとは足尾銅山鉱毒事件の被災者が入植した土地です。 (注3)この号には「全北海道歌人番附」が載っていて、これもすこぶるおもしろいものとなっています。ちなみに東方は文語歌人で横綱は小田観蛍、西方は口語歌人で横綱は伊東音次郎でした。 (注4)この部分、菅原政雄『北見の文学ものがたり』からの孫引きです。初出資料が確認でき次第注記を差し替えたいと思います。 |
更新日:2015年10月12日
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日本の地域文学文献を本格的に集め始めて昨年2014年の8月でちょうど満10年。昨年12月の鹿児島調査で47都道府県踏破を(「踏破」というより「足を踏み入れた」というべき程度の県が大半ですが)、今年4月の熊本県立図書館の調査で全都道府県立図書館巡りを終え、書店・古書店での資料収集と合わせて、ようやくはっきりと各都道府県文学史の全体像が見えてくるようになりました。まだ成果の発表が進んでいないのは遺憾ですが、その点は今後順次補っていきたいと思っています。 ホームページもしばらく放置していましたが、書きたいことも出てきましたので、短い文章を書くリハビリを兼ねて適宜更新していく予定です。 さて、今回はこれまで私が訪れたことのある最北の場所、北海道の湧別町と金子きみについてのお話です。 昨年9月、旭川から遠軽・生田原・北見・網走とまわった際、時間に若干の余裕がありそうでしたので、湧別町の湧別図書館をまわることにしました。湧別町はオホーツク海に面した町で、湧別図書館までは石北本線の遠軽駅からバスで片道40分ほどの場所にあります(注1)。紋別や佐呂間町までいく時間はとれませんが、ここであればなんとか往復できそうだという目論見です。 また、湧別をおとずれようとした理由は、単に時間的な問題だけではなくもう一つありました。それは、ここが庄司きみ=金子きみの出生地で、湧別図書館が関連する資料を少し持っているという情報を仕入れていたからです。金子きみは両親と夫が山形県の出身で、戦中・戦後同県に疎開していることから私の中心的研究ともそれなりに深く結びついているのですが、なにより金子きみの一ファンとして、なにはともあれ一度行ってみたいと考えたのでした。 時間は午後3時半過ぎ、遠軽駅から数分歩いたバスターミナルを発車するバスに乗って湧別へと向かいます。遠軽の町をぬけると湧別への道は一直線。途中の中湧別に公共施設・商業施設と住宅のちょっとした集積がある他は、両側にポツポツと商店や住宅がある程度のガランとした道です。「○○号線」といったいかにも周りになにもなさそうな停留所を横目に見ながらバスに揺られているうちに、バスは湧別の小さなバスターミナルに着きました。ここはオホーツク海まで歩いて10分弱のところで、ほのかに海のかおりもただよってきます。建物は並んではいますが、人通りの少ないさびしいところです。北海道だからなのか、港町だからなのか、サバサバとカサついた印象も受けますが、それはただ単に私の心がカサついていただけなのかもしれません。 図書館はこの湧別のバス停からほど近いところにありました。入口を入ると展示ケースが並んでいて、そこに金子きみや兄の庄司詩泡の資料などが展示されています。そして、館内の郷土資料の棚には、金子きみや中山正男に関わる一角も設けられていました。 金子きみの父庄司喜三郎がサロマ湖畔の芭露の地に入植したのは1908年のこと。金子きみはこの芭露で生まれ、小学校時代4年ほどの旭川生活をはさんで、再び芭露から10数キロ山道を登った東芭露で家族と名産の薄荷の栽培にたずさわりました。その後、1935年、酪農に生業を転じた家族とともにサロマ湖畔へと転居し、1940年に金子智一と結婚するまで湧別と姉が住む東京とを往復します(注2)。戦時中の一時期を含めれば30年近く湧別と関わったといえるでしょう。 湧別町での生活を背景とする作品は、第1歌集の『草』、第2歌集の『草の分際』と没後刊行された作品集『夢の中のはしご』のそれぞれに収められています。その中から、私なりの基準でいくつか取りあげてみたいと思います。 草 草だけの命を誇り 青々と草を抱き 草に抱かれる この「草」の歌は第1歌集『草』の冒頭におかれたもので、本人の後の評価はともあれ、「草の歌人」としての金子きみを象徴する歌となっています。 摘み草の母が小さく唄うたふ そこら ちろちろ 燃える陽炎 畑仕事 寂しい日もある たんぽぽの 綿毛をとばす風を見て居る 畠ではすみれも邪魔草 むしつて捨てて さて 夢多い女 部落は一面青いはたけ 此処に住む倖を 青い風が囁く 以上4首は第1歌集『草』から。 今年の豊作を祈って太陽を母が拝む 私もまねして拝む 疲れて帰れば空腹の牛が草ねだる よしよしと言って草刈に出る 毎日毎日薄荷畑 うぬぼれ楽し きっとわたしもいい匂い 薄荷の仕事手間ひまかかるけど いいにおい振りまくからうれしい 以上4首は第2歌集『草の分際』から。小学校を終えたばかりの頃の事情に取材しているようです。 金子きみの歌人としての位置づけは多様で、農業生活に従事する「草の歌人」・「農民歌人」としての位置づけもあれば、社会派(あるいは社会主義的)歌人としての位置づけもあります。ただ、どうも私の評価はその抒情性に重きをおいたものにならざるを得ないようです。作業・生計どちらも楽ではないであろう開拓地の営農生活の中にあっても、前向きに生活に溶け込む中で生まれてくるリリシズムこそに、その本領があるように思えてなりません。 続いて、以下の9首は、東芭露の小学生時代の記憶をもととして作歌され、第2歌集『草の分際』の中に「山の少女」という総題のもと収められたものです。 山の少女に はじめての世界を光らせた 新任の先生の黒ぶちの眼鏡 先生がこっちへ来る 木漏れ日が踊る 知らんふりしてどんぐりを拾う せんせ せんせと騒がれる時 誰よりも心をこめて 背を向けた 裏山はしいんと色づき 好きな先生といる 放課後の破れオルガン 笹わけてふたりきりだった 海の町からきた先生は 海のにおいがした 山わたる風にじっと耳をすますのを いらいらとこちらへ向かせたい 算術がダメだな 肩へきた手に息つめて べつな言葉を待っている 先生は 山の学校とわたしをすてて行ってしまう 太陽は真っ赤で悲しい 峠まで送っていった 泣き虫と言われたくないから バッタを追った 東芭露はオホーツク海から10キロ以上内陸に入った山の中にありました。小学生のきみにとってはどんぐりやバッタこそ自らに近しいもので、海のにおいは外側の世界のにおいだったのでしょう。 この「山の少女」の作品群、後年になって当時の様子を回想して作歌したものである以上「後知恵」が入っていることは否めませんし、思い出として記憶が純化されてやや甘いものになっているとの批判もあるかもしれません。しかし、自分はこれら作品が含むリリシズムに素直に惹かれずにはいられないことも告白せねばなりません。それは、もちろん「先生」の側にアイデンティファイしたためではなく、また「山の少女」の側にアイデンティファイしたためというのとも少し違います。私が惹かれるのは、「誰よりも心をこめて背を向けた」というような部分での、言葉の裏側にある押さえ込まれた屈折する「思い」そのものと、それがあたかもキリキリと摩擦音を立てるようにして表に出ようとする時に生まれる一種名状しがたい抒情感に対しての共感なのだと思います。 その意味でも、結局のところ私にとっての金子きみというのは一人の優れたる抒情歌人ということになるのでしょう。 バスの時間の関係で湧別図書館には1時間弱しか滞在できず、資料の様子を確認した程度で戻らざるをえませんでした。東芭露・芭露にはもちろん行くことができていません。また次回以降ということになるでしょう。ただ、棚と展示を見られたことは一応の収穫だといえますし、なにより金子きみについてより深く考えるきっかけになったことは得がたい経験だったと思います。そして、どこであろうとも、人がいるところには抒情の火種があり、優れた文学が生まれる土壌があるのだということを改めて実感できたことも。 帰りのバスが遠軽に着くころにはあたりはもうすっかり暗くなっていました。来るときには小さく見えた遠軽の町ですが、湧別からの暗い道を進んできた眼にはお店の明かりがあざやかで、キラキラと格別にかがやいて見えました。 (注1)現在の湧別町は、2009年上湧別町と湧別町とが合併して誕生したもので、図書館は旧上湧別町由来の中湧別図書館と、旧湧別町由来の湧別図書館の二つあります。町としては旧上湧別町の方が規模が大きいのですが、上に書いたような理由で今回の私の目的は湧別図書館の方にありました。金子きみの居住地芭露・東芭露も旧湧別町内にあります。 (注2)姉の夫は佐呂間町(当時佐呂間村)出身の中山正男でした。 |
更新日:2014年9月25日
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すでに2014年も2/3が過ぎ去り「今さら」の極みという感じではありますが、2012年1年分だけまとめて放置しているのは気になりましたので、2013年に出た新刊書のうち内容に優れためぼしいものを備忘録的にリストアップしておくことにしました。リストアップの基準は1.地域文壇・詩歌俳壇関係の書籍を中心として、2.広く流通している本は省く、3.図書館等で閲覧しただけで自分がまだ入手できていないものも省く、・・・という感じです(あいまいなところはありますが)。今後また増補するかもしれません。 ・石山宗晏・西勝洋一、旭川市中央図書館編『道北を巡った歌人たち』(旭川振興公社) ・北けんじ『詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼』(あさひかわ学研究会・下村文庫) ・野沢省悟『現代川柳評論集冨二という壁』(青森県文芸協会出版部) ・古水一雄『盛岡・肴町の天才俳人『春又春の日記』から』(盛岡近代詩文研究所) ・『詩叢 復刻版』(密造者の会) 『畠山義郎全詩集』(コールサック社)、畠山義郎『美しい詩ではないけれど』(秋田魁新報社)も出ました。 ・『記憶の棲む場所―夭折の作家・永山一郎美術作品集』(LEGENDS) ・鈴木守『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京』(友藍書房) 鈴木守『羅須地人協会の終焉―その真実』(友藍書房)もあります。 ・菅野俊之『ふくしまと文豪たち―鴎外、漱石、鏡花、賢治、ほか』(歴史春秋出版) ・原山喜亥『埼玉最初の近代詩人太田玉茗の足跡』(まつやま書房) ・『詩が光を生むのだ―高島高全詩集』(桂書房) ・立野幸雄『越中文学の情―富山の近・現代文学作品』(桂書房) ・野村恒彦『探偵小説の街・神戸』(エレガントライフ) ・里村欣三顕彰会編『里村欣三の眼差し』(吉備人出版) ・富阪晃『おかやま文学紀行』(文芸社) ・広島市文化協会文芸部会編『占領期の出版メディアと検閲―戦後広島の文芸活動』(勉誠出版) ・上田京子『生田春月への旅』(編集工房遊・今井出版) ・草原哲夫編『朝の歌―西原正春全作品』(朝倉書林) ・中村青史『窮死した歌人の肖像―宗不旱の生涯』(形文社) ・山口保明、方ノ坂登版画『新編日向路の山頭火』(鉱脈社) ・仲程昌徳『「南洋紀行」の中の沖縄人たち』(ボーダーインク) ・松島浄『沖縄の文学を読む―摩文仁朝信・山之口貘そして現在の書き手たち』(脈発行所) ・『薄明の中で―宮城松隆追悼集』(宮城松隆追悼集発行委員会) ・尾崎眞人『池袋モンパルナスそぞろ歩き―培風寮/花岡謙二と靉光』(池袋モンパルナスの会) ・千田光、小野夕馥編『千田光全詩集』(森開社) ・松村久子、藤澤玲子編『遺稿詩集 松村久子』(私家版) ・酒井正平『小さい時間(復刻版)』(水平書館) この他高栄文学』第33号「菅原政雄追悼号」(柏の国書房)をはじめとして、雑誌の追悼号・特集でもいくつか有用なものが出ています。 |
更新日:2013年10月1日
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9月の庄内行きの前後に全く別のルートで庄内関係の比較的珍しい本を何冊か入手することができた。その一冊が最上駿作『河岸』(朝陽社、昭和18年)である。最上駿作というのは、鶴岡出身で共産党の地下組織活動・プロレタリア文化運動に関わった池田勇作のペンネーム。作品は「日支事変」勃発後の労働者の転業問題を扱ったもので、プロレタリア文学の発展的変種(あえてこの言葉を使う)としての「転向文学(島木健作的思想小説・武麟的風俗小説に加えて生産文学などもここに含めたい)」の要素を濃厚に帯びている。 池田勇作については佐藤幸夫・堀司朗編『魂の道標へ―池田勇作と郁の軌跡』(私家版、2007年)に詳しいが、同書によればこの『河岸』、初版5000部とあるにも関わらず図書館に所蔵がなく、編輯に際しても息子である池田俊一所蔵の一冊のみしか見つからなかったという。 池田勇作は治安維持法違反容疑で逮捕・起訴され、昭和17年12月「懲役3年6ヶ月」の有罪判決を受けた。『河岸』は判決の直前健康上の理由で保釈された際に旧稿(昭和13年から昭和14年にかけて初稿が書かれた)を加筆整理して準備されたものである。書籍は昭和18年9月に刊行されたが、池田勇作は刊行前の7月に再び収監され、そのまま翌昭和19年3月13日に獄中で亡くなった。30年と10ヶ月の生涯であった。 (補記)『河岸』は『魂の道標へ―池田勇作と郁の軌跡』の中に全文翻刻されています。 |
更新日:2013年9月20日
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ひさしぶりの更新になってしまいました。この間岐阜県高山、広島、山口(下関・山口・周南・田布施・柳井)などに行きましたがそれはまた何かの機会に。とりあえず直近の調査でのできごとについて、箇条書き的に書いておきたいと思います。 9月15日は新潟へ、といっても今回は県立図書館には寄らず坂井栄信について調べるため新潟市西蒲区(旧潟東村)の潟東歴史民俗資料館に行きました。資料面での成果はありませんでしたが、親切にご対応いただき実家の場所がわかったのが収穫です。その後ちょこっと北書店にも寄りました。 16日は鶴岡に移動しいつも通り阿部久書店と市立図書館へ。阿部久書店がいかに素晴らしいかについては、私がぐちぐちと述べるまでもないでしょう。今回も庄内関係の書籍をいくつかまとめて購入しました。驚いたのは、前回1月に来た際に一度手にとったもののそのまま棚に戻してしまった帷子耀『スタジアムのために』(書肆山田、昭和48年)がまだ残っていたこと!しかも全く同じ場所に!!というわけで今度こそ購入です。自分の日頃の蒐書範囲とは微妙にずれているような気もしますが、半年待ったので買ってもバチはあたらないでしょう、・・・と勝手に思い込むことにしました。 17日はさらに秋田に移動・・・の途中本荘で台風にぶつかりずぶ濡れに。しかも羽越本線が不通になったため、羽後本荘から秋田までは羽後交通のバスでの移動となりました。秋田では県立図書館とあきた文学資料館を調査しそれなりの収穫。3年ぶりになるあきた文学資料館で、畠山義郎さんが8月7日に亡くなられていたことなどを今更ながらに知りました。 18日は盛岡へ、岩手県立図書館もひさしぶりです。さわや書店フェザン店では村上昭夫『動物哀歌』の平成11年版を購入。『動物哀歌』には昭和42年Laの会から刊行された初刊本の系統と翌年刊行された思潮社版の系統がありますが、平成11年版は初刊本の系統の5回目の再版にあたるとのこと。初刊本の系統については昭和47年版を持っていたのですが、平成11年版では新たに「九篇」が「補遺として追加」され、年譜の内容についてこれまでの版のものに訂正が施されています。(・・・と適当に書きましたが『動物哀歌』については自分で具体的に各版本の異同を調べたわけではないので認識に誤りがあるかもしれません) |
更新日:2013年4月28日
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2月下旬花粉症重症化→3月下旬咳とのどの痛み→4月咳のしすぎで肋骨痛・咳するとつらい(いまここ)。 さて、2013年もだいぶ進んでしまいましたので、2012年の注目新刊書の残りをどどっと紹介してしまいたいと思います。気力も体力も時間も足りないので一覧で、しかもうろ覚えの記憶で書いたところもあるので細かい間違いがあるかもしれません。順不同。 ・飯野道郎編『野に叫ぶ 飯野農夫也と奥久慈版画会―戦後復興と地方からの文化発信』(飯野農夫也画業保存会) 「野に叫ぶ 飯野農夫也と奥久慈版画会展」図録。奥久慈版画会『版画通信』第1号〜第3号、詩草社『詩草』第1号・第2号の翻刻も収録されています。内容充実! ・宮崎真素美『戦争のなかの詩人たち―「荒地」のまなざし』(学術出版会・日本図書センター) 小川富五郎を中心とした八王子の文学活動について詳しい記述があります。「詩誌「蝶」をめぐる座談会」と詩誌『蝶』第2輯の影印も収録。 ・橋本平八『純粋彫刻論』(伊勢文化舎) 橋本平八は北園克衛兄。元版は1942年昭森社より刊行。故郷伊勢での復刊です。 ・秋原勝二『夜の話―百歳の作家、満洲日本語文学を書きついで』(編集グループSURE) 秋原勝二の作品集です。インタヴュー「創作と、同人誌『作文』との八〇年」収録。 ・小野弘子『父矢代東村―近代短歌史の一側面』(短歌新聞社・現代短歌社) 長女の手になる矢代東村の伝記です。「年譜」あり、詳しく有用です。 ・砂川哲雄『山之口貘の青春―石垣島の足跡を中心に』(南山舎) 1921年と1923年の石垣島旅行と『八重山新報』への寄稿に関わる問題を中心に文字通り山之口貘と石垣島に関わる問題が詳しく調べられています。『八重山新報』寄稿作品の影印あり。 ・仲程昌徳『沖縄系ハワイ移民達の表現―琉歌・川柳・短歌・小説』(ボーダーインク) ハワイにおける沖縄移民の文学活動が琉歌・「琉語川柳」・短歌についてまとめられています。ここ40年ほどの話題が中心です。 ・北川晃二『逃亡/月明』(石風社) 北川晃二「逃亡」・「月明」の復刻。解説として深野治「『逃亡』の戦場と主題」が付載されています。 ・青柳瑞穂『詩人高木護―浮浪の昭和精神史』(脈発行所) 著者の卒業論文をもとにした論考です。「年譜」付載。 ・島根県文学館推進委員会編『続・人物しまね文学館』(山陰中央新報社) 『人物しまね文学館』の続編になります。巻末に「島根の文学運動」付載。 ・高橋輝雄、外村彰編『もくはんのうた―高橋輝雄作品集』(龜鳴屋) ・山田順子・大木志門編『山田順子作品集―下萌ゆる草・オレンジエート』(龜鳴屋) 以上二冊龜鳴屋さんの新刊です。山田順子は由利本荘の出身。 ・永山一郎『詩集地の中の異国』(LEGENDS) 永山一郎の第一詩集『地の中の異国』の復刻版です。この本についてはいずれ詳しく書きたいと思います。 |
更新日:2013年3月29日
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25日から28日まで短い期間でしたが帯広・釧路・根室・弟子屈と北海道道東をめぐってきました。まず印象に残ったのはエゾシカ。根室本線の釧路・根室間や釧網本線の釧路・標茶間は人間国とエゾシカ国との領土紛争地帯らしく、線路内に気ままに立ち入るエゾシカさんによけてもらうため列車の運転士さんは大変そうでした。といっても、あたりまえのことながらそれは人間様の勝手な見方で、エゾシカさんにとっては人間こそ迷惑極まりない闖入者ということになるのでしょう。エゾシカさんたちは、線路脇に立って列車をやれやれといった感じの冷めた高貴な目線で見送っていました。・・・そんなこんな、最近いいことがなく今回の調査の収穫もいまいちでしたが、そのエゾシカさんたちのおかげでまあまあ楽しい出張になりました。さて、それはともかく今回の調査の目的の一つは、更科源蔵が生まれ育った開拓地、弟子屈町の熊牛原野を見ておくことにありました。更科源蔵の熊牛原野での生活については『熊牛原野』をはじめとする諸著作にかなりの分量が書かれています。原野の厳しい生活、アイヌの人たちとの交流、動物たちとの共存などなど印象に残っている部分は沢山ありますが、ここでは遺稿となった『青春の原野』(北海タイムス社、1987年)の中の一節だけを引用しておきたいと思います。麻布獣医畜産学校在学中兄の怪我で帰郷した際のこと、更科源蔵17歳のころの回想です。 兄が退院すると、原野の生活はまたもとの平凡な日々に明け暮れ、私の逓送の仕事もそのまま続けられたが、夏休みも次第に終わりに近づいていた。 その夏は冷害とまでではなかったが、寒い夏で、作物の成長は順調ではなかった。 東京に帰るまで、何とかして一度でも、歯茎のうずうずするような、故郷の玉蜀黍が食べたかった。 二、三反ある玉蜀黍畑のどこかに、二本か、三本は稔ったのがあるかもしれない。 それを探しに行った畑の片隅に、二十年ほどたったと思われる、二本の高い唐松が風に靡いているのが目に入った。 私たちはそこを、子供の時からミヨの墓と呼んでいた。生まれて間もなく亡くなった、私の知らない姉の墓である。 父たちの開拓がはじまって間もないときで、まだ墓地もきまっていなかったので、開拓した土地の片隅に葬って、目印に唐松を植えたものらしい。 春になると、畑の耕作にかかる前に、母や姉が土まんじゅうの上を綺麗に掃除して草花の種を蒔くので、夏から秋にかけて、季節の花々が次から次に花開いて、そこは美しい花壇になり、私はそこに眠っている姉は、おそらく仏画に描かれている、ふくよかな童女のように、紫の雲に包まれているように思われた。 そのときもまだ少し未熟な玉蜀黍をとって、姉の墓のところまで帰ってくると、明るい秋の斜陽をうけて姉の墓は、燃えるように真っ赤に、百日紅の花が咲いていた。 それを見たとき私は、この冷たい開拓地の土に埋められて、人生の楽しみも悲しみも知らず、今はもうすっかり土に還っているかもしれない姉が、思い出の花々になって、ようやく青春の日を迎えようとしている私に、何かを呼びかけ訴えたくて咲いているように思われて、思わず立ち止ってしまった。 そして私の胸の中に吹き抜けて行く思いを、何とか文章というものに書き現してみたい。 それは歌や俳句のように凝縮されたものでなく、もっと自由な、もっと普通の言葉でうたう、詩というもので書いてみたいと思った。 (中略) これが私が詩というようなものを、書くようになったはじめであった。 この「詩を書くきっかけ」について記した部分、他の著作でもよく言及されていて、記述の内容も必ずしも一定していないのですが、『青春の原野』は最もドラマチックにその事情をまとめているといえるでしょう。まさに文学(あるいは芸術)とはこういうものだという部分です。 今回更科源蔵の生地を訪ねた際の最大の関心は、あえていえばこの「二本の高い唐松」がまだ残っているのかというところにありました。そして訪ねた結果はというと・・・。写真はその熊牛原野31線西1、更科源蔵の生まれ育った場所の近くです。小さくてわかりにくいかもしれませんが目の前にあるのが踏切、線路を越えると目的の場所なのですが・・・、踏切をはさんで1メートル近い雪で道路が埋もれてしまい全く立ち入ることができませんでした。雪が残っていることは当然ですがこの状況は想定外。 今度気候のいい時に再訪しようと思います。できれば夏の終わりに来たいな。 |
更新日:2013年3月12日
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帰国後体調不良と花粉症で心身ともにボロボロの状態、予定が詰まっていなかったのが不幸中の幸いでした。しばらくはじっとしています。さて、もはや「2012年をふりかえる」時期でもあるまいとは思いますが、今回は昨年購入した新刊書籍のについて簡単に書いておきたいと思います。 ―2冊目― 平田周『松尾あつゆき日記―原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』(長崎新聞社) 戦前『層雲』に関わった俳人の新刊の句集や研究書等は、数がありすぎる尾崎放哉と種田山頭火関係は除きできる限り買うようにしています。昨年も藤岡照房『山頭火と朱鱗洞』や「ふらここ叢書」の新刊河本緑石『大空放哉傳』(発行は2011年だったようですが) などいくつかの収穫がありました。その中でも最も印象に残ったのがこの本です。 松尾あつゆきは1904年長崎県北松浦郡佐々村(佐々町)の生まれ、昭和の初めから『層雲』に拠って句作を始め、戦後もその死まで断続的に作句を続けました。長崎で被爆し妻と三人の子を喪くした被爆者としての自らの生き方と精神をよんだ戦後の作品が有名で、その作品を集めた『原爆句集』(私家版、1972年、1975年文化評論社から増補再版)が代表作となっています。本書は、その松尾あつゆきが書き残した30冊余りの日記のうち1945年8月9日から8月15日までの部分(記入したのは後日であるので本書では「覚書」とされている)と、1945年9月21日から1946年6月9日までの部分を収録したもので、8月9日から8月15日までの部分は本人の手で加筆されて発表されたことがありますが、他の大部分は初公開となるものです。 本書の読みどころは、まずはいわずもがなですが原爆禍を記録した部分でしょう。妻千代子と三人の子ども(海人・宏人・由紀子)を目の前でなくしていく過程を記した本書の記録は、記憶の通俗化へとつながる作為・誇張・教訓・自慢・気取りといったものから遠いところにあり、それ故にその言葉は通俗的「原爆残酷物語(語弊のある言い方かもしれませんが)」とは異なる力を持ったものとなっています。妻千代子とのやりとりは痛切の極みです。 ですが、それ以上に本書の読みどころとなっているのが、残された長女みち子と二人で「原爆後」を生きていく部分です。 「(1945年9月22日)きのうのつづきの気持ちで、怏々としている。全部あなた任せ、になり切ることが出来ればいいのであるが。焦燥、悲観、厭世、何ともいえず。結局死ぬことを考える。時には、みち子がこんな愚図々々した回復振りが腹立ち、癒るなら早く癒ってくれと祈り、或は死んで呉れた方が簡単でよかったと考える。然し、みち子の身になって見れば、どんなに悲しいことだろう。じっと大きな眼を見はって何かをみつめている。その眼の中には、実に無限の哀愁が含まれているように思われる。母を失い、弟妹を失い、自らはいつ治るとも分らぬ傷を負って呻吟している、その身になったら、傍からアクセク気を焦立てるのはほんとに可哀そうだと思われるのである。」、「(11月3日)夢、海人とも宏人とも一人誰か分らぬ二、三人に氷に砂糖入れて、西瓜をたべさせていた愉快な夢、夢は昔の楽しい生活の再現、夢を見れば、失った生活も一つの形でのこっているということができる。」、「(11月29日)ぶらぶらとあるいて、いろいろ悲しいことの多い中に、これはほんとによろこんでいいことなのではないか、と思う。だんだん馴れてくると、よろこびをよろこびとすることも忘れてくるので、危険であると思う。」 ほとんど耐えることが不可能であるかのような苛烈な現実の中にあっても人は生きて行かなければなりません。本書の中心は、原爆そのものよりも、むしろその現実の中におかれた人間の「その後」のあり方・生き方の問題にあるといえるでしょう。それは極めて現在的な問題でもあります。 この他、日記刊行へと至る物語も、本書の読みどころの一つになっているといえるかもしれません。戦後松尾あつゆきは再婚し長女みち子も結婚してそれぞれの道を歩みました。日記は松尾あつゆきの死後、後妻とみ子の手を経てみち子の子どもである編者の手に渡り、紆余曲折を経て出版へと至ります。編者の手による「序」と「つながる命の途上で―あとがきに代えて」は、短文ながらこの資料と家族をめぐる事情をあざやかに描いて読ませるものとなっています。 最後に本書にも一部収録されている『原爆句集』の作品から何句か引用したいと思います。 (自ら木を組みて三児を焼く) とんぼう、子を焼く木をひろうてくる かぜ、子らに火をつけてたばこ一本 ほのお、兄をなかによりそうて火になる あはれ七ヶ月の命の、はなびらのような骨かな (子の母も死す、三十六才) くりかえし米の配給のことこれが遺言か なにもかもなくした手に四まいの爆死証明 (佐々へ移る、配給の茶碗などふろしきに包みて) 身を寄せにゆくふたりなら皿も二まい (以上1945年より) つわぶきふと見る墓石のこれにも原爆の日付 この世に生存していた事実、石を一つ置く (以上1970年より) わが傷はわが舐めるほかなしけもののごとく (以上1972年より) (補記)なお松尾あつゆきのまとまった作品集としては竹村あつお編『花びらのような命―自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験』(龍鳳書房、2008年)もあります。・・・7ヶ月でなくなった次女由紀子の「はなびらのような骨」からとったタイトルは美しくもせつないものです。しかし、穿ってみれば、人はみな「はなびらのようないのち」を生きているといえるのかもしれません。 |
更新日:2013年2月27日
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この3月で東京大学中文科の戸倉英美先生がご退職になられます。私は近現代文学が専門でしたので、先生との授業での接点は学部時代教室の端っこでお話をうかがっていた程度なのですが、それでもご著作から受けた影響も含めて非常に大きな学恩を蒙りました。いま思い返してみて一番鮮明な印象は、学部2年生のオープンキャンパスで「楚辞」の演習を拝聴させていただいた際のこと。訓詁学的世界のあまりの奥深さに文字通り凍り付いたことが鮮明です。・・・大変申し訳ないことに、どこの部分を読んでいたのか全く記憶にないのですが・・・。 さて、一方そのような中華的世界からやや離れてあちこちの図書館で日本の地域的文学活動について調べるのが最近のわたくしなのですが、先日横浜市青葉区の山内図書館でこの二つの文脈が思いもしないところで結びつく体験をしました。きっかけとなったのは二冊の本、『戸倉英太郎さんを偲ぶ会』と『「戸倉英太郎さん生誕百年を記念する会」記念誌―早渕の流れは永遠に』です。ここで「記念」されている戸倉英太郎さんというのは、横浜(特に現在の緑区・青葉区・都筑区・港北区のあたりをフィールドとする)の郷土史家として重要な仕事をされた人なのですが・・・、察しのいい方はすでにお感づきのように、戸倉英美先生のお父様でもあったのです。 戸倉英太郎さんは、戦前戦後の一時期には鶴見で料亭「さつき」を経営する横浜の文化的交友圏中の人でもあったようで、私が調べている文学者たちとも関わりがありました。余裕があるときに少し突き詰めて調べてみたいと思います。 |
更新日:2013年2月18日
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2月14日から16日まで兵庫県と和歌山県に資料調べに行ってきました。2泊3日の中で姫路文学館・姫路市立図書館→兵庫県立図書館(明石)→神戸市立図書館→和歌山県立図書館・和歌山県立近代美術館と古書店5件、新刊書店1件をまわる詰め込み日程だったため疲労も少々。調査の方はまずまずの出来でした。本来であれば現在進行形で調べたり本を集めたりしている事柄について記すのが話題としては一番おもしろいのでしょうが、資料を集めきって文章にまとめるまえに手のうちを明かすのは難しいところもあるのでそこは後まわし。無難なところでなんとか一ネタにしたいと思います。写真は和歌山県立近代美術館、現在開催中の企画展「謄写版の冒険」を見てパンフレット「謄写版の冒険―卓上印刷器からはじまったアート」を入手してきました。 展示の中で印象に残ったのは、1929年に発行された堀井謄写堂のカタログ冊子です。謄写印刷機の価格と原紙の価格が記載されたページが開かれていたので、当時の謄写印刷にかかる費用がおおよそイメージできました。謄写器械の価格は一番安い「普通製」の「一号」のもので8円、同じの大きさの一番安い原紙は100枚で1.2円とのこと。当時の1円は現在の5000円ぐらいですから、なかなかお手頃というべきでしょう。このような低価格化によって、謄写印刷機が庶民向けのツールとして普及し、同人雑誌の簡便な発行に寄与することになったのでした。もちろんそれでも鈴木健太郎のような経済的余力の少ない農家の若者には十分に高価であったわけですが。 ちなみに、私には資料がきれいに展示されて澄まし顔で並んでいる美術館はどうも落ち着かないため、ちょこっとだけメモをとってそそくさと図書館に移動・・・。やはり私には人様のものを鑑賞させていただくより、自分の手もとにモノを置いて手触りを感じながら夜中にためつすがめつ眺める方が性に合っているのでした(たとえモノの質量は少なからず劣るとしても)。 |
更新日:2013年2月7日
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1月末・2月初を期限として抱えていたいくつかのお仕事からようやく解放されました。プチ引きこもり状態が続いてとりあえずのネタがないため、今回は昨年年末のお話を書いてみようと思います。2012年も押し詰まった12月27日、下村千秋と稲敷郡内の文学活動について調べるべく土浦駅から関東鉄道バスに20分ほど揺られて茨城県の阿見町に行ってきました。千葉県の北総地域に長く住んでいて土浦には何かと縁があるのですが、土浦からバスに乗って阿見を目指すのは初めて、阿見を通るのも2年前に江戸崎に行って以来ということで初めての景色にわくわくしながらのバス旅となりました。 今回の第一の目的地は阿見町立図書館。写真の通り町村立図書館としてはなかなか立派な建物で、中身も町村立としては十分といえる蔵書量でした。調べようとした郷土資料に一部欠号があったのは残念でしたが、遺族からの寄贈を受けて設けられた「下村千秋文学コーナー」はなかなかの充実ぶりで個人的に使えそうなものもあります。作品掲載誌の複写がまとめられたファイルなど量があるのでまた来なければいけません。帰りには30分ほど歩いて町役場の建物に寄り『下村千秋の世界―その研究と検証』を入手。内容的に未整理なところもありますが、下村千秋に関心がある方は持っていていい本だと思います。阿見の文学活動の一端もわかります。 (補記)阿見町立図書館については小泉俊一『図書館長になったそば屋さん』 (筑波書林、1995年)という本もあります。 |
更新日:2013年1月27日
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お正月ぐらいから地味に進めていたホームページリニューアル作業がとりあえず完成し、公開に至りました(祝!)。便利できれいなサイトはいろいろあれど、やはり自分でタグを手打ちして作ったサイトは格別で、かわいさ100倍といったところ。書いてある文章の内容までよく見えてくるから不思議です。手作り万歳! そうはいっても、以前のように全く更新せずほったらかしということになるとあまり意味がないですので、まずはこのページを中心に少しずつでも更新していけたらと思っています。目標はとりあえず低めに、最低月一回更新です。 ちなみに、今回の更新の際に意識したのは「シンプルで見やすいあっさりしたページを作る」ということです。どれだけ実現できたかはわかりませんが、少なくともホームページ開設当初のコテコテ感はなくなったのではないかと思います。多少の自己宣伝臭はお見逃しいただけますとありがたいです。 というわけで、何はともあれ今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 (補記)なお、本日から29日まではプレ公開とし、切りがいい1月30日を正式公開日としたいと思います。どうでもいいことですが・・・。 |
更新日:2013年1月26日
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1月17日から20日までは今年初めての山形県調査でした。今回は山形から入り東根・新庄・鶴岡を一筆書きで回って新潟経由で帰京する計画だったため、帰りの羽越線の状況がかなり心配でしたが、幸いなことに運休も遅延もなく「いなほ」と新幹線を乗り継いで定時で帰宅できました。19日は詩人齋藤禮助の出生地跡を見に東根市の一日町へ。まだきちんと調べていないため100パーセントの確定はできていないのですが、出生地のおおよその場所はわかりました。写真はその出生地の近く、県道29号線沿いの「まめとうや」さんと一日町郵便局があるあたりです。オンマウスの写真は、そのすぐそばの日塔川に架かる橋からの眺めになります。この日は晴間八分雪二分ぐらいの陽気で、凍結した氷と泥濘とが合わさって余所者には歩きにくい道を地元の方の雪かき作業の邪魔をする迷惑な人になりながらヨチヨチ歩きました。 東根では前回来た時に買い逃していた『こぶしの花―国分一太郎の世界』を購入。2011年7月初版で11月に二刷がかかっていました。さすが国分一太郎!ちなみに、この本「略年譜」付きなのですが、長瀞尋常高等小学校勤務時代の部分が詳しいのがありがたいところです。 |
更新日:2013年1月13日
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私が普段購入する日本の本は、冊数ベースでも金額ベースでも95パーセント以上古書なのですが、そうはいってももちろん全く日本の新刊書を買っていないというわけではありません。特に昨年は新刊書捜索ルートを見直したこともあって、いままでより多少きめ細かく新刊書を追うことができました。というわけで、テーマとしては月並の極みなのですが、2012年に刊行された日本の新刊書籍の中から印象に残ったものを何冊かとり上げてみようと思います。普通の本をとりあげてもあまり意味がありませんので、大手取次の流通ルートに乗らない本・少部数刊行の本・地方出版の本・地方文壇に関わる本に絞って紹介します。 ―1冊目― 真室二郎作品集(上下二冊) 山形県最上郡真室川町出身の作家真室二郎の作品集です。真室二郎の主要な文章と「略歴」、「作品目録」、真室宛書簡の一部等が収録されています。文学研究の専門家の手によるものではないため編輯には多少問題もありますが、ご遺族の方が関わられていることもあり、かなり充実した内容です。 真室二郎は、1906年真室川の生まれ、山形県立工業学校卒業後石川島飛行機製作所(後の立川飛行機株式会社)に入社しました。文学的には『作家群』・『文芸首都』を出発点に純文学の側から出発し、作品は第11回(1940年上半期)の芥川賞予選候補にもあげられましたが、立川飛行機の技師という職業柄と戦中の時局柄から次第に生産文学・職能文学・戦記文学的方向へと流れ、第14回(1941年下半期)直木賞予選候補作選出を経て第二回航空文学賞を受賞へと至りました。その受賞対象作品を中心とした著作『風圧に立つ』(非凡閣、1944年、序文は菊池寛)は真室の唯一の著作となっています。現在真室二郎の名前が仮に「文学史」の中に「登録されている」とすれば、それはこの「第二回航空文学賞受賞」という受賞歴と『風圧に立つ』という著作によるものといえるでしょう。 そのようなわけで、航空文学賞受賞をもたらした(微量の通俗性と投機性を含んだ)生産文学・職能文学・戦記文学的特長こそが「文学史」の中で真室二郎を真室二郎たらしめているといえるのですが、本人は例によって純文学・芥川賞志望で、川端康成宛の書簡からは、通俗・中間文芸誌に作品を発表することに対しての複雑な思いが読みとれます。当初は「端的に申し上ぐれば、初念は芥川賞を目標として書いたもので、オール読物に載るのは、どうも食い足りない感じがするのです。(かな遣いは書中のママ)」というように不満をはっきりと書いていますが、『オール読物』に載った作品が話題になりるにつれ、少しずつ考え方に変化がでてきているのがおもしろいところです。そのような作品掲載をめぐる川端とのやりとりも、本書の読みどころの一つであるといえましょう。 なお、この本、2012年11月10日から真室川町立歴史民俗資料館で開催された「郷土の作家真室二郎展」に合わせて刊行されたものですが、私は「郷土の作家真室二郎展」を初日午前に参観して余所者としては最初にこの本を手に入れました(←自慢にならない自慢、なお展覧会そのものにはすでに先客の方がいらっしゃいました)。現在は新庄の丸井八文字屋でも平積みされています。 「郷土の作家真室二郎展」も規模は小さいながら充実したいいものでした。このレベルで「埋もれた」文学者一人一人が掘り起こされれば、「文学史」はもっともっと豊かなものになることでしょう。 |